心地よさと、すがすがしさと~セルのジュピター
永年聴き続けている曲がある。
その中の三曲について書きたいが、その一曲一曲についての自分の捉え方にも変化があったので、
まずは一曲を取り上げる。
モーツァルトの最後の三つの交響曲の一曲、ジュピターである。
多分、CMなども含めて、一部分のフレーズだけでいえば、40番の交響曲が一番日本人の耳には
入っていると思う。
第一楽章の冒頭の旋律
♭ミレレ ♭ミレレ ♭ミレレ ♭シ ♭シラソ ソファ♭ミ ♭ミレドド
というメロディーが弦のトゥッテイで始まる。
この作曲家は音階や半音階を実に効果的に使って曲の旋律となした。この部分は厳密には
半音階とは言えないのかもしれず、半音を効果的に、というべきなのであろうが、何故このような
ものを造り出せるのか、凡人には到底分からない、素晴らしい効果を上げているのは確かである。
つまり、普通の組み合わせでとんでもない曲を造り上げたひとでもあるといえるのだ。
造り上げたことが普通なのでなく、普通をこんなふうに使うことはボンクラな作曲家が千年
生きていても多分なしえないこと、それを何の苦労もせずに…そんな風に曲を仕上げたという
逸話はいくらでも持っている作曲家であって…やり遂げていることがとんでもないことなのだ。
彼は36歳の誕生日を待たずしてこの世を去った。それをひとは早世と言い、もしもっと長生き
出来ればもっと素晴らしい作品をこの世に残してくれたであろうに…などと惜しむ。
はたしてそうだろうか。
私にはするべき仕事をして世を去ったのではないかと思えてしまうのだ。
話がそれてしまったが、ジュピターは、そんな、ト短調交響曲とも呼ばれる、40番の次に
書かれた、彼の最後の交響曲で、表題は後世の人間による。
しばしば、モーツァルトに限らず、偉大な作曲家の残した大作に多くみられる調性、
ハ長調で書かれたこの交響曲に、中学生くらいのわたしは余りなじめなかった。
未熟な感性であったのか、ロマン派のほのかな香りさえ漂わせるような、不思議な曲調に
なんとなく違和感を感じたのか、理由は定かではない。
ド ソラシド ソラシド という冒頭から始まるこの曲を、好きになっていたのは20歳過ぎ
位だったろうか。
この雄大な出だしは、比較的高い音から始まる40番とは違い、弦の低い所から始まり、それに
呼応する、ド ドーシ レード ソーーーファ という高い部分の弦と織りなす会話のような
冒頭から、管楽器も交えた、やや勇ましい感じのする厚みへと展開して、それからめまぐるしく、
彼ならではの魔法のような筆致で音楽の持つ独自性をいかんなく発揮しながら先へ先へと進んで
いくのだ。
私がこの曲を聴いてほれなおしたのは恐らくジョージ・セル指揮のクリーヴランド管弦楽団に
よるが、この指揮者もまた、私の中では重要な位置にいる音楽家の一人である。
実に見事な弦の使い方、柔らかみを帯び、透明感は申し分ない。最も特筆すべきはデュナミークの
見事さなのではないか、と思う。奇跡のような弱音から高らかな強音まで、自然な流れで自在
にオケを操り、管楽器などのソロはどこまでも完璧に旋律を歌い上げ、繊細で、美しく、
しかも明るい音色のモーツァルトは、なかなか聴くことの出来ない演奏だと思われる。
余りオケの曲を聴かない自分を、惹きつけてやまなかったセルの魅力は、あれから数十年の時を
経てなお色あせる事はない。
この素晴らしいモーツァルトを、多くのひとに一度聴いて頂きたいと願ってやまない。
心地良い世界にいざなわれ、聴き終わるとすがすがしい気持ちになれる。
こういう演奏と曲の聴ける幸せをかみしめている。