比類無きグレン・グールドのバッハ
今更言うまでもない話だ。しかし書かずにはいられない、自分にとって一つの
聖域のような…しかも不可侵の領域のような曲の数々をこの世に残したバッハの
とりわけても比類のない楽曲のうち、「ピアノのための」曲の殆どを録音した
ピアニスト、グールドの演奏について、吉田秀和の言葉を追いながら書いてみたい。
ピアノでバッハを演奏しない鍵盤奏者もいるのだが、吉田秀和はこう書いている。
前略 ポリフォニーとホモフォニーの微妙に、多様に混合した様式で書かれている
音楽を演奏する場合には 中略 チェンバロよりむしろピアノで演奏したほうが、
はるかに、この音楽の唯一無二の美しさを再現するに適しているということが
わかってくる。 後略
ピアノという楽器は十九世紀半ばから現在にかけて「完成」した新しい楽器だ。
バッハ(1685~1750)の音楽は、殆どが18世紀に書かれており、そのころ
チェンバロやせいぜいクラヴィコードしか鍵盤楽器は無かった。
そして、チェンバロよりも愛用していたというクラヴィコードの鍵盤を叩くことで、バッハは
彼自身の音楽を奏するにあたっての可能性が、未来に向かって無限に伸びているのを
感じ取っていたのではないかとさえ思える。
グールド自身はオルガンとチェンバロもピアノ同様に弾きこなしたし、バッハもまた優れた
オルガニストでチェンバロ奏者でもあったのだ。
バッハの音楽に対する深く、恐らく「真に迫った」理解が「グールドのバッハ」の演奏の数々を
今日われわれが耳にするような状態で残したのでは無いかと自分にも思われる。
チェンバロの構造上果たせなかった音質をピアノによって得られる未来をバッハの音楽は
はらんでいたのだ。それを読み取り、だからこそ誰もなしえなかったバッハを演奏することが
出来たのが、稀有の天才、グールドであったのではないか。
それを改めて、吉田秀和の書いた本を読み返しながら、考えた午後のひとときであった。