初見ってなに?
しょけん、と書いたら、所見と思うひともいるかもしれない。
音楽をやる人間の認識では、初見であって、学校の入試や授業にみっちり組み込まれている、
そういうモノとなる。
要は、全く知らない曲を、譜面を一分から三分くらい見て、その場で弾く、という感じだ。
技術的に困難すぎる曲はこの場合は取り上げられないのであるが、譜面を読む速さはやはり
必要、そういう話であろう。
楽譜を読むのは、本を読むのと似た感覚かと思う。どんな内容か。音を鳴らさない状態でも、
音譜が物語るモノを感じ取るのが必要になる。
勿論ここにも限界はある。
聴音という厄介なものもあって、これは、音を聴きとる能力を問われるものだが、こちらは
旋律ないし、和声(音が同時に鳴るもの、としておく)の二種類が基本となっている。
ピアノで教師が、初見と同じくまったく知らない「曲」を弾く。初めは聴くだけ。二度目も聴
くだけの場合もあるが、譜面に書いてもよい場合もある。大体五回くらいで、書く時間も与え
られるが聴いたものをすべて譜面に落とさねばならない。
こういった事柄も天才にかかると、こんな逸話となる。
爾来、教会音楽というと、門外不出の曲が多々あり、今のご時世と違って、録音など全く
出来ないロココ時代、モーツァルトがまだ子供の頃のこと。
ある日ある教会で、ミゼレーレという曲が演奏された。これは当時、楽譜の持ち出しを禁止
されていたもので、勿論少年モーツァルトも初めて聴いたのである。四声と五声の二重奏、
と言っても、それぞれが四つのパートと五つのパートに分れているので、九つのパートが入り
組んだ宗教音楽で、アレグリという、当時は良く知られた作曲家によるものであった。
演奏時間にして、十数分であろうか。
大人たちと共に教会でその曲を聴いた少年モーツァルトは、曲に大いに満足したようである。
宿に戻ってか食事時か、とにかく、大人たちは口々に素晴らしい曲であったとほめそやす。
あの曲の譜面が手に入ればなあ…
すると少年モーツァルトは言う。僕、あの曲覚えてるよ!
そしてすらすらと、五線紙にミゼレーレ全曲を書いてしまう。
大人たちがそれを読むと、確かに先ほど聴いた音楽そのものであったという。
殆ど間違えのないものであったようだ。その後のいきさつ始め、詳細は、興味が沸いたら
正確な情報を調べていただければ面白いかもしれない。
ここにも天才の、ちょっと常人には考えられない、技があったのである。
そこまでは無理でも、そしてそれはその当時であるから成り立つことであったかもしれないが、
聴きとることの大切さは、音楽をやる人間は身をもって知っているのだ。
譜面から音楽を感じ取ること。聴いてさまざまな音を聴きわけること。
ここらへんは音楽においての基本となってくるからである。