あの曲の名は…
曲の名前と音楽との関わりについて考えてみる。
ふだん耳にする音楽で「曲名」を誰かに尋ねたら、どんな返事が
返ってくるだろう。
もしかしたら、「曲名のない音楽ってあるの?」などと聞かれるかもしれない。
遡ること数千年、マタイによる福音書に、「最後の晩餐ののち、「一同は
讃美の歌をうたってから…」」という記述がある。
その時代より、讃美歌(実際には中世後期以降に形をなしたといわれる)にも、
名前があったのだ。作曲者不詳のものなどは、讃美歌何番、と番号で分かるように
なっている。
クラシックでいえば、楽曲の形式は定まっていて、「番号」はあっても、
曲の名前が無い物がかなり多いのだ。
名前のある物として、一例をあげよう。
ベートーヴェンの有名な「運命」と名付けられた第五番の交響曲は、
運命はこのように扉をたたく、そうベートーヴェンが言ったという
エピソードから名付けられた曲である。
ソ ソ ソ ♭ミーーーーー ファ ファ ファ レーーーーー
という出だしは確かにそんな風に思えなくもない。
ベートーヴェンの曲には結構曲名が付いたものが多いのだが、本人が
名前を付けたのはごくごく僅かである。
ロマン派中期~後期以降から、表題音楽というものが徐々に出て来た。
これは、先の「運命」とは異なり、その題名で、作曲家の内奥の表れを、
端的に、或いは具体的に、「題名」に表しているものである。
副題によって曲の中身が具体的に分かるものもある。
では題名によって得られるイメージは聴き手にとって重要なのだろうか。
そういうことを考える。
交響曲でも室内楽でも独奏曲でも、題名のある音楽は、
イメージを先行させるのだろうか。それともそうでないのか。
梅雨の季節がら、思いついたのは、ショパンのピアノのための
前奏曲「雨だれ」だ。この曲は、少し激しい調子の中間部を
挿んだ三部形式なのだが、全体を通して左手で奏する部分に
規則的な、スタッカートまではいかないノンレガートの伴奏的な
フレーズが延々と続く、それを雨だれのようだ、と聞き手が捉え
「雨だれ」という題名を与えたのであるが、果たしてそれが雨だれっぽいか
いささか微妙なのは置くとして「雨だれ」という名前によって何かが
プラスされるものなのか。
「運命交響曲」はやはり第五番シンフォニーと呼ばれるより、
より具体的で、それが聴くときに何かしら違うものになるのだろうか。
イメージにとらわれ過ぎるのは、なんによらず余り良いことではないと
思う。
それでも「題名」というのはやはり何かを「作品」に与える、そんな
気がしないでもないのは確かである。